体験談を読む
どんなときも肯定し見守ってくれた両親
特別養子縁組で迎えられた男の子が、里親になるまで
声優の平野隼人さんは、特別養子縁組でご両親に迎え入れられ、親子となりました。ご両親の愛情をいっぱいに受けて育った平野さん。いまは自身が里親として、社会的養護のこどもたちを家庭に迎えています。特別養子当事者の平野さんと養親のご両親、お互いにどんなことを思い、平野さんが大人になっていったのでしょうか。そして、平野さんが里親になった理由とは。お話を伺いました。
クリスマス前、乳児院からやってきた男の子
――隼人さんのご両親、敏彦さんと泰子さんご夫婦が隼人さんを迎え入れた経緯を教えてください。
敏彦さん:隼人が乳児院から我が家にやってきたのは2歳になる直前、クリスマスの季節でした。 2歳を超えると乳児院から児童養護施設に移ると言われていたので、直前のタイミングでしたね。誕生日が年末だったので、クリスマス会とお誕生日会を立て続けにやったのを覚えています。
泰子さん:もともと私の体が弱く、なかなかこどもを授からなかったため隼人を迎え入れることになりました。当時は「家を継ぐ長男がいなければ」という風潮で、隼人が来る前は親戚の集まりなどで「こどもさえできればねえ」と言われるなど、つらい思いをしたこともありました。
敏彦さん:私もずっとこどもたちのサッカーの指導者をしていたのですが、周囲から「こどもがいたほうが楽しいぞ」と言われることもありましたね。ボランティアで児童養護施設にお菓子を届けるなどしていた先輩に、「こどもを紹介してもらったら」などとアドバイスをもらい、特別養子縁組を考えるようになりました。
最初は簡単なのかと思っていたのですが、迎え入れるためには色々な手続きが必要なことがわかりました。最初は特別養子縁組前提の里親として迎え入れ、最終的に裁判所の決定が下りて特別養子縁組ができたのは、6歳になる直前でした。
――隼人さんは平野家に来た頃の記憶などは残っていますか。
隼人さん:ほとんどないですね。ただ大きくなってから、乳児院にいた頃の自分の写真を見て、「この壁や床、覚えがある!」と思ったことはあります。
「この子のために」と病気も乗り越えた
――隼人さんはどんなお子さんで、どのように子育てをしましたか。
敏彦さん:特別養子縁組を考えるようになって3回目の乳児院訪問で、2歳になる子が6人くらいいたなかで、隼人と目が合って、ひらめきのようなものを感じました。迎え入れたらとっても育てやすい子で。よそのお宅に食事に行っても、おとなしく寝ているような子でした。
泰子さん:買い物に行っても駄々をこねることもなかったですね。親としては、人並みでいいから、とにかく病気だけはさせたくないと思って一心に育てていました。
隼人が3歳のときに、私が卵巣がんになりました。症状も進んでいたのですが、とにかく「この子を残して死ねない。なんとか頑張らなきゃ」と思い、乗り越えました。手術で卵巣を取り、こどもを産む機能はなくなってしまったのですが、「隼人がいるから、こどもはもういなくてもいいね」と夫婦で話しました。
敏彦さん:本当に、隼人がいなかったら、今頃妻はいなかったかもしれません。隼人がうちに来てまだ1年でしたし、「3人でまだまだ楽しい思い出をつくるぞ」という、強い生きる意思が、隼人のおかげで妻の中に生まれてきたのだと思います。
隼人さん:その頃、父の弟や友人の家によく連れて行かれるなとは感じていたのですが、預かってもらっていたのですね。母が病気だったというのは、もっと大きくなってから知りました。
――強い気持ちで病気を乗り越えられて、隼人さんを育てることがまたできるようになったのですね。
泰子さん:はい。幼稚園に入る頃には退院できて、ウィッグをかぶりながら送迎していましたね。習い事も色々させました。
敏彦さん:私がコーチをしているサッカーに、陸上、空手、器械体操……スポーツチャンバラもやりました。水泳は体験コースのときに最初全く水に入らなかったので「これはダメだな」と思ったのですが、「僕やるよ」と。そこで週1回通うことになりました。
真実告知はなかったけれど、「うすうす気づいていた」
――水泳は小中高と続けられ、高校のときには青森県記録を出すなど、地元を代表する選手になられましたね。
敏彦さん:学校やスイミングスクールの送り迎えは全部親がやりました。主に私が担当でしたね。
泰子さん:中学のときにはスイミングスクールに二つ通い、高校は水泳部の強い学校に推薦で入り、家を離れて寮生活をしていました。水泳が忙しいのと思春期なのもあって、少し荒れたこともありました。あるとき自宅に帰ってきたときは、ストレスがたまったのか庭に積もった雪の上に寝転がって「あー! 俺には時間がない!!」と叫んでいましたね。試合に負けて、私に当たることもありました。
自分が親とは血がつながっていないこともうすうす感じていて、でも言えないというのもあったのかなと思います。様子がおかしい、よそよそしいと思い、隼人が気づいているということは私も何となくわかっていました。
隼人さん:両親から真実告知はなかったけれど、血のつながりがないということはうすうす気づいていました。赤ちゃんの頃の写真が家にないし、周りからは似ていると言われるけれど、僕自身は親と顔が似ていないと感じていましたので。成長するにつれて違和感を覚えるようになっていきました。
でも僕自身はそこまで気にしていなかったので、そのことを両親に聞くことはなかったです。
――実親のことやルーツを話す真実告知をしなかったのは、なぜでしょうか。
敏彦さん:一生懸命育てた自分の子だという意識があったので、告知をしようという気持ちはありませんでした。もし本人が本当のことを知ったら、自分たちの思いを伝えようと思っていました。
泰子さん:隼人の実の親は二人とも亡くなっていたので、いまいらっしゃらないのをあえてこうだったんだよと話す必要はないかなと。告知しなくても、いつかそのときが来たら自然に答えよう、そう思っていました。
――隼人さんが特別養子だとはっきり知ったのは、いつですか。
隼人さん:結婚することになったときです。婚姻届を出すのに必要な戸籍謄本を、青森から両親に送ってもらって、それを見て知りました。(特別養子縁組が決まった)「裁判確定」という文字を見て「そうだよね」と。冷静な気持ちでした。
両親に電話しようと思い、母につながったので「お母さん、俺お母さんの子じゃないよね」と言いました。母は「うそついてごめんね」と言っていましたが、僕は「うそだと思ってないよ。育ててくれてありがとう」と。母は泣いていました。僕もさすがに泣いてしまって。
「育ててくれてありがとう」と言ったのは、「血がつながっていないのに育ててくれてありがとう」という意味ではないです。普通の親子として、「いままで、育ててくれてありがとう」。そんな気持ちで伝えました。
隼人さんの上京、結婚、そして里親登録へ
――話は変わりますが、ずっと水泳に打ち込んでいた隼人さん、突然声優になると言い出したそうですね。
隼人さん:はい。高校2年で進路を考える時期に、突然。それまで声優という職業があるということも知らなかったのですが、そういう仕事があるよと友人から聞いて、「面白そうだからやってみたい」と思いました。
敏彦さん:東京の専門学校に行って、声優をめざすと。私としては水泳の推薦や特待生で大学に行くと思っていたので、「大学に行ってからでも遅くはないのではないか」とは言いました。
泰子さん:恵比寿の専門学校を見に行き、そこに入学することになりました。お金がかかりましたよ(笑)。
――でも駄目だとは言わず、応援したのですね。
敏彦さん:本人の人生ですから。専門学校に入って、20歳の成人式のとき、隼人が地元の式典で町民憲章の朗読をしたのですが、それまで少しザワザワしていた会場が、隼人の声でシーンとなって、皆が耳を傾けて。広い会場に隼人の声が響き渡るのを聞いて、すごいな、さすがだなと思いました。親ばかですけれど(笑)。
隼人さん:最近はアニメだけでなく、両親が知っているような作品や舞台に出て、見てもらえるようになりました。
――隼人さんはご結婚後に養育里親の研修を受け登録、現在4歳の女の子をご夫婦で育てていらっしゃいます。皆さんそれぞれのお考えをお聞かせください。
隼人さん:妻から「こどもを授からないかもしれない」という話を聞いたとき、「里親という選択肢もあるよ」と伝えました。僕自身も特別養子縁組で迎え入れられたこどもですので、僕が家で育ったように、家庭で生活を送って成長することが、こどもにとって将来の力になるのではないかと思ったのです。
泰子さん:反対はしなかったです。ただ、自分の経験から「こどもを育てるということは並大抵のことじゃないからね、それを覚悟してやるのだったらいいんじゃないの」と伝えました。
敏彦さん:隼人自身も特別養子縁組のこどもで、そのうえで自分たちも里親としてこどもを育てたいという気持ちが芽生えたということは、自分たちがやってきたことが隼人に伝わっているのかなと思いました。こどもを迎え入れることで、私たちと隼人たちの距離ももっと縮むんじゃないかなと思うと、うれしかったです。
隼人さん:短期の受け入れも含めて、これまで4人のお子さんをお預かりしてきました。こどもを迎えるということは、日々学びと反省の繰り返しだなと感じています。「あそこはもうちょっとこうしたらよかったな」とか、「あのとき、ああしてほしかったのかな」とか、夫婦二人で話し合いながらこどもに向き合っています。可愛い顔で笑ったり、日々成長を見せてくれたりすると、苦労よりもうれしさのほうが大きいです。
将来的には、私たちも特別養子縁組ができたらいいなと思っています。
――最後に、特別養子縁組を考えていらっしゃる方々に、メッセージをお願いします。
敏彦さん:隼人がいたおかげで交流関係も広がりました。隼人が出場したインターハイ会場の沖縄や大阪など、夫婦だけなら行かなかったような場所にも、連れて行ってもらえました。隼人が帰省してくれることは、いまも生活のメリハリになっています。もし特別養子縁組にご興味がおありなら、チャレンジしてみてほしいです。自分の新しい人生というものを、つくっていくことができると思いますよ。
泰子さん:私は自分が43歳のときに隼人を迎え入れたのですが、もっと早くてもよかったなと思っています。お子さんがいない人たちも、そうでない人も、ぜひ検討してほしい。とても大切な制度だと思います。
隼人さん:「特別養子縁組」というだけあって、どこか特別なもののように感じるかもしれませんが、僕たちはごく普通の家庭です。特別養子縁組の家庭も、僕と両親の関係のように、親子の一つのかたちとして社会に受け入れられるようになってほしいですね。こどもたちの抱えている事情は本当にさまざまで、責任も伴うのですが、まずは知ることから始めてほしいと思います。
「こどもに生い立ちを伝えること」の現在の考え方 専門家からの解説
徳永祥子・セラピューティックライフストーリーワークジャパン代表
ひと昔前は、特別養子縁組のこどもに生い立ちを伝えないことは多かったのですが、現在は迎え入れた幼少期から、折に触れて伝えることが必要とされています。
現代はさまざまな情報を手に入れることができる、情報化社会です。養親が言わなかったとしても、最近はこどももインターネットで様々な検索ができるため、親の名前を検索すると思わぬ情報を目にする可能性があります。こどもが養親に隠れて生みの親に会いに行き、期待していたような対応を得られず、結果こどもの心が傷つくということも、起こるかもしれません。また、自然と受け入れることができる場合もあれば、こどもが「生みの親と住めなくなったのは自分が悪い子だったからだ」などと考えたりする場合もあり、自己肯定感を下げる可能性もあります。そして、「養親からは教えられていないけれど、血のつながりがないことは何となくわかっていた」と言うこどもは、とても多いです。
だからこそ本当のことを伝え、どれだけこどもを待ち望んでいたのかと伝えることが大切なのです。
ひらの・やすこ/1949年、青森県生まれ。43歳のときに隼人さんを家庭に迎え入れる。
ひらの・はやと/1992年、青森県生まれ。乳児院を経て、5歳で平野さんご夫婦と特別養子縁組をする。高校水泳部では、インターハイ県大会を三連覇した。20歳で声優としてデビュー。
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