体験談を読む
特別養子縁組がつなぐ〝家族のかたち〟
4人の当事者が語りあったそれぞれの想いと、
支援の未来
特別養子縁組という形で新たに家族となった人たちがいます。それぞれが違う背景や思いを抱えながら、こどもたちは成長のどこかで、自分の出自と向き合うことになります。今回は、世代も事情も異なる養子当事者4人にお集まりいただき、家族として迎えられた道のり、自身の生い立ちを知った瞬間や自分のルーツを探す過程で感じた思いなどを率直に語ってもらいました。多様な家族のあり方が当たり前に受けとめられる未来のために、こどもたち、育ての親、生みの親、そして社会にとって何が必要なのか、ともに考えます。
【参加者プロフィール】
後藤絵里さん(司会進行):ソーシャルワーカー、元新聞記者
●楠木梨乃(くすのき・りの=仮名)さん: 関東在住。38歳。会社員。幼児期に特別養子縁組により育て親の家庭に迎えられる。28歳で特別養子縁組したことなど真実告知を受け,現在は、夫と2人のこどもと暮らす。
●杉山柚希(すぎやま・ゆずき=仮名)さん: 関西在住。60歳。0歳のとき普通養子縁組により育て親と家族になる。里親として約25年の経験があり、現在はファミリーホームを運営し、様々な事情を抱えるこどもたちと生活している。
●梅田橙也(うめだ・とうや=仮名)さん: 関西在住。38歳、会社員。生後3カ月のとき、育ての親の家庭に迎え入れられる。両親の他界後、自らのルーツを探し事実を知る。
●桐原桃花(きりはら・ももか=仮名)さん: 関東在住。26歳、保育士。生後まもなく育ての親の元で生活し、5か月のときに特別養子縁組が成立。物心つく前からこの事実を伝えられて育つ。夫と1歳のこどもと暮らす。
「頭の中が真っ白に」「大人になるまで知らされず」真実告知、それぞれの瞬間
――まず、ご自身が養子であることをいつ、どのように知ったのか、いわゆる「真実告知」の経験から聞かせてください。
楠木 梨乃(以下、梨乃)さん:28歳で結婚するとき、育ててくれた母が泣きながら伝えてくれました。それまで母が泣いたところなど見たことがなかったので、私も驚いて頭の中が真っ白になったのを覚えています。育ての両親は養育里親をしていて、10歳下の妹も特別養子縁組で迎えた子ですが、自分のことは実子だと疑わず、まったく気づかずに育ちました。告知後に夫に話したら、「俺はそう思っていたよ」と言われて……。私の家庭環境から彼なりに感じ取るものがあったようです。「知らなかったのは私だけ?」という感じでした(笑)。
杉山 柚希(以下、柚希)さん:私の場合は、特別養子縁組制度ができる前ですので普通養子縁組です。戸籍謄本をみればすべてわかる時代で、大学入学時に母が戸籍に書かれていることを涙ながらに説明してくれました。でも、実は小学校1年生のとき、近所の人が「あの娘はもらいっ子だから」とうわさしているのを聞いてうすうす知っていたんですよ。母に尋ねると、自分のおなかの傷を見せて「ここを切って産んだんだ。あの人たちはうそつきだから」とすごい剣幕で否定するので、こどもながらに「これは聞いてはいけないことなんだ」と察しました。なので、母親の告白もクールに受け止めましたね。
梅田 橙也(以下、橙也)さん:私は両親が相次いで他界するまでまったく知りませんでした。母の死後、手続きで取り寄せた戸籍謄本に「民法817条の2による裁判確定日」という記載があることに気づき、父に聞いたんです。うそが下手な人なのですが、その時は顔色も変えずに「実はお前は母の代理出産で生まれた子なんや」と。英語で書かれた書類まで見せられて、その時はそれで納得してしまいました。本当の事実は、半年ほどたって父が亡くなった後、家から見つかったお守りの中に入っていた、古い新聞記事の切り抜きで知りました。折りたたまれて入っていた「僕たちのパパやママになってください」と書かれた記事の写真に映っていた赤ちゃんが僕でした(※)。父はわざと見つけやすい場所にお守りを置いていったのかも知れません。20代半ばのことでした。
※公益社団法人家庭養護促進協会大阪事務所と自治体、毎日新聞大阪本社が協力して実施している『あなたの愛の手を』運動のこと。1964年から続く親と暮らせないこどもたちを新聞で紹介し、育て親を探す取り組み。
――ドラマチックなお話ですね。振り返ってみて、伏線のようなものはなかったのですか?
橙也:反抗期がひどかったとき、母は「あなたなんか産まへんかったら良かったわ」と言い放ち、「橋の下で拾った子やから」といった冗談も平気で口にする人だったので、まさか自分が養子だとは思いもしませんでした。ただ後になって、母の遺品から育児ノートが出てきました。そこには、告知をしようとする母の想いや葛藤が綴られていました。これを読んだとき、母のひざの上でノートに一緒にスタンプを押した記憶が突然よみがえりました。母もいつか告知しようとしていたんだな、と今は感じています。
――桃花さんは、皆さんとはまったく違う経験ですね。
桐原 桃花(以下、桃花)さん:はい。私は0歳で迎えられましたが、あっせんしてくれた団体が「真実告知は必ずする」という方針だったので、物心つく前から教えてもらいました。幼稚園の頃は、養子縁組がテーマの絵本を毎晩読み聞かせてくれ、あれが両親なりの伝え方だったのでしょう。小学生になって、あらためてその絵本を読んだときに、「これって私のこと?」と少しずつ理解し、「お母さんが2人いる」という感覚になっていきました。2歳上の姉も、5歳下の弟も特別養子で迎えられたので、これが普通だという環境でもありました。
SNSで検索する自分のルーツにつながる情報
――出自を知った後、思春期の葛藤やご自身のルーツ、生みの親について知りたいという思いはありましたか。
桃花:思春期に育ての親とけんかすると「あんたなんか迎えなきゃよかった」「じゃあ捨てればよかったのに!」といった言葉が飛び交う、〝養子あるある〟なぶつかりあいはありましたね。「育てられないのになぜ自分を産んだのだろう」と思い、中学生の時、家中を探し回って、裁判所の記録を見つけたこともあります。そこに生みの親の名前も住所も書かれていました。私を未成年で産み、育てられない事情を理解することで、少しずつ感謝の気持ちへと変わっていきました。20歳になって初めて、母が生みの母の写真を見せてくれましたが、あまりにそっくりで、びっくりしました(笑)。そこに抱かれている赤ちゃんの私もいて、「本当に親子なんだ」と確信しました。それまで存在は知っていても、顔も知らないし、実感はなかったんです。その後、親の名前をSNSで検索したら見つかって、もう一人こどもを産んで自分で育てていることもわかりました。母子手帳にあった父親の名前も検索したら出てきましたが、ちょっと想像と違ったタイプだったので、記憶から抹消しました(笑)。実の親と暮らしたとしても、今の両親との生活より幸せになれたとは思えないので、特別養子縁組で迎えられてよかったなと思っています。
柚希:私の場合、家の跡取りとして迎えられたこともあって大事にされたというか、むしろ腫れ物に触るような扱いを受けました。私自身も、親が誰だかわからない中で自分のアイデンティティが持てず、誰にも反抗すらできない。身の置きどころがない感じで、高校進学を機に家を出ました。実の母は私を産んですぐ亡くなり、父も中学生のときに他界しています。養母から二人の兄の連絡先は渡されていたので、一つ目の大学を中退し働いていて体を壊したときに連絡をとり、初めて会いました。手のひらの形と大きさがそっくりでしたね。血の繋がった肉親に会えたのは、本当に嬉しかったです。ずっと兄弟に憧れていたのに、その存在を知らされていなかったことが悔しくて。どうして尋ねたときに教えてくれなかったのか、ルーツを知っていれば思春期を堂々と生きられたのに、という思いが沸き上がりました。
――橙也さんはご自身でルーツをたどられたそうですね。
橙也:はい。育ての両親は親戚にも一切事情を隠していましたから、自分で調べるしかありませんでした。父が亡くなった後、戸籍をたどっていくと、いま僕が住んでいる場所から車で5分ほどの所に生みの母が住んでいることがわかりました。SNSで検索してみたら、彼女にはこどももいました。すでに彼女には彼女の家庭がある。少なくとも一番下の子が成人するまでは会う必要はないな、と今は思っています。自分の父親がどんな人かも知りたかったのですが、情報はありませんでした。
梨乃:私の場合は、ルーツを知りたいという思いはそれほど強くないのかも知れません。生みの母が残した母子手帳に、私の上に7人きょうだいがいる記録がありました。でも私を生んでくれた人がいたという事実を知っただけで十分かなと、今は思っています。それより、私が預けられていた乳児院の担当だった方と知り合えたことが、自分のルーツを知る上でうれしかったです。赤ちゃん時代の自分のことを教えてくれる第二の親戚のお姉さんのような存在です。結婚式にも出席してもらいました。
「自分はひとりじゃない」告知の必要性と支え合う関係
――皆さんの経験を踏まえて、真実告知はすべきだと思いますか?
橙也: した方がいいと思います。自分で探す労力も大変ですし、将来的な病気など遺伝的なことを知りたいという理由もあります。何より、僕のように両親が亡くなってしまったら、もう誰にも聞けない。育ての親を失ったことと、自分のアイデンティティという二重の喪失を経験することになるからです。でも、タイミングは重要です。僕の思春期は両親とのけんかが激しかったので、思春期の対立まっただ中で伝えられたら、受け入れるのは難しいかもしれない。
梨乃:産んでくれた人が別にいるという事実を知った上で、自分の生き方を考えられるようになったので、告知はした方がいいと思います。育ての母は「20歳になったら伝えたいことがある」と私に話していましたが、いざ誕生日に尋ねると言葉を濁してしまいました。迷っていたのだと今は思います。
柚希:自分が誰から生まれたかということは、個人の基本情報です。それを知らせない選択肢はありません。それにどれだけ隠そうと思っても、絶対にどこかで漏れてしまうものです。ただし、生まれた事情や環境は人それぞれなので、いつどのように伝えるかはケース・バイ・ケースだと感じます。
――桃花さんは、幼い頃から知らされてきましたが、ご自身のアイデンティティ形成にどう影響しましたか?
桃花:私がお世話になった団体では、養子として迎えられた子たちが集まる会が年に何回かありました。小さい頃はただの遊び場でしたが、そのうち周りのみんなも同じ境遇だとわかり、「自分は一人じゃないんだ」と思えたことは大きかったと思います。姉も同じ養子なので、何でも愚痴を言い合うことができた。これも心の支えになりました。
梨乃:私にとっては、きょうはじめて自分以外の養子当事者の方と話す機会になりました。事情はそれぞれ違いますが、繫がりを感じることができて、とても有意義な時間を過ごせました。
橙也:僕は事実を知って、自分自身をどう扱っていいのかしばらく当惑しました。心の中のどの箱に「養子」という事実を収めればいいのか。それが柚希さんもおっしゃった「アイデンティティがない」状態なのだと感じます。自分には幼いころから繰り返し見る夢がありました。赤ちゃんの自分が誰かに抱き上げられ、渡されるようなイメージで、何の意味があるのだろうと不思議でした。それが自分の出自や両親の背景、あっせんしてくれた団体の存在などから全容が見えてきて、あの夢は、乳児院で生みの親から育ての親に自分が託されたときの記憶に違いないと腑(ふ)に落ちました。自分の過去や記憶と向き合うためにも真実の告知は欠かせないと思います。
さまざまな家族のかたちが「当たり前」になる社会へ
――最後に、特別養子縁組がひとつの家族の形として、社会で当たり前に受け止められるようになるためには、何が必要だと思いますか。
桃花:小学校の授業などで、もっとこうした家族の形があることを伝えればいいと思います。幼いうちから互いに知っていけば、「かわいそう」といった周囲の偏見も減るはず。私たちは全然かわいそうじゃない。私自身、そう言われるのが嫌で、自分が養子であることを隠したいタイプでした。そういう子たちが、隠さずに「普通のことだから」と言える環境になってほしいです。
柚希:私は自分が体験した養子の扱われ方がすごく嫌だった経験から、里親になりました。こどもたちに「産んだ人は他にいるんだよ。私もそうだし」と伝えると、すんなり納得します。養子で育った経験は、里親として生きるときには大きなメリットです。社会的養護で育つ誰もが、その経験を弱みではなく、むしろ自分たちの強みだと思って育つことができると良いと思います。
梨乃:育ての親にとっても、親同士が集まれる場は大事だと思います。育てる上での悩みや、こどもの気持ちを聞くことができる場所があれば、親の心も軽くなるはずです。
橙也:告知の方法などを気軽に相談できる窓口などがもっとあるといいと思います。あっせん団体や支援機関の存在は、僕のように告知されず育った子にとって頼りになる場所であり、もっとその意義が社会に知られて欲しいと思います。
柚希:告知せずに育てようとする養親さんの場合、なかなか相談の場に出てこられない現実もあります。特別養子縁組でこどもを迎えたら「5年に1度は必ず研修を受ける」といった制度が必要かもしれません。育てたいけど育てられない、という人には、親子を離さずに済むよう社会がサポートすべきです。その上でどうしても育てられない状況の時に、特別養子縁組というこどもが幸せになる手段があるということを広く知ってもらうことも大事だと思います。
――同じ養子であっても、一人ひとりの歩みは全く違います。だからこそ当事者同士が繋がり、語り合う場の重要性をあらためて感じました。事実を知ることの大切さ、そして多様な家族の形が当たり前に受け入れられる社会のために多くのヒントがありました。本日はありがとうございました。
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